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2008年02月26日

栗原安秀のエピソード

こんな意味があったのですね。
疑問だらけだったのが、納得しました。
その人物とエピソード
1908年(明治41年)11月17日、島根県松江市に生まれる。父は陸軍大佐の栗原勇で、父の職業柄一時期北海道旭川で暮らしている。

事件では反乱幇助をしたとされ処分を受けた斎藤瀏、またその娘で歌人の斎藤史とは家族ぐるみで仲が良かった。歩兵第3連隊坂井直中尉もこの頃の幼馴染。大きくなっても、斉藤史からは「クリコ」と呼ばれていた。

東京に戻り、1925年3月名教中学校を4学年で修業したのち、4月陸軍士官学校予科に入校。41期生で、同期には中橋基明、対馬勝雄がいる。栗原は中学生当時から『国家改造』について雄弁に語っていたが、この頃は仲間を見つけて議論、または自身で歴史研究するだけで実行する気はまだなかったらしい。

少尉任官後は陸幼を卒業していない者としては史上初の連隊旗手を務めた。ちなみに陸士での席次は24番/130名。 容姿端麗で見栄え良く情熱家で、後に、多くの人間を影響・感化・共鳴させ、「俺はやる、必ずやる」と口を開けば言っていた事からついた「ヤルヤル中尉」という不名誉なあだ名を拝受した栗原だが、その栗原を作り出したのは『十月事件』以降の事である。

『十月事件』前に俗にいう皇道派先輩方の薫陶を受け、自分以外にも革新思想をもった同期が多数いる事を知った栗原は1933年『救国埼玉青年挺身隊事件』に関連。主犯格にも似た立場であったが、自身にはお咎めなかった。(しかし同期で盟友の中橋基明中尉は規律厳しい近衛歩兵に属していた為か満州に飛ばされた)

1935年(昭和10年)秋、第一師団が満州に飛ばされるとの噂、相沢公判の進み具合に焦りまた鬱々とするも1936年(昭和11年)に入ると昭和維新断行計画を本格化。磯部浅一、村中孝次、安藤輝三などを中心に度々会合。安藤が動けば歩3が動くとされた事から計画遂行ぎりぎりまで説得を試みた。

事件当日は首相官邸に常駐。新聞社襲撃、上部工作、演説などのために各所をうろついた。その後は西田はつ(西田税の妻)や斎藤瀏らと頻繁に電話で連絡を取る(その多くは戒厳司令部により録音されていた)。28日陸相官邸に集まり、山下奉文中将から宮中の雲ゆきがあやしい事を聞き悔しさや宸襟を悩ませたことに責任を感じ自刃を決意するも、29日奉勅命令が出された後の上層部の態度に不信感を持ち裁判での徹底抗戦を叫んだ。

衛戍刑務所では常に周りの将校を励まし、裁判の場においては部下の将校をかばっている。

7月5日、青年将校達が死刑判決を受けたとき栗原は一言、「多すぎたなあ」と呟いたという。その後悔しさ紛れに遺書を書いたが、みっともないのでこれは処分してくれと刑務官に頼んだもののその遺書は現存している。処刑前は仲間達と死んでもなお昭和維新を断行する意思を語り合った。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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